大人になれば

 大人になるというのは、大切なモノが増えると言うこと、なのかもしれない。

 若い時と言うのは、金がないってのもあるんだけど、とにかく集中力だけはあるから、好きなモノに熱中していられる。好きな音楽は一日中聴いていられるし、好きな本は何度も読み返せるし、好きな食べ物で一週間過ごせるし。で、年をとって集中力が薄れた頃になると、自分の周りに好きなモノが蓄積してることに気づく。

 中年になるとモノに囲まれて生きてることが面倒くさくなるので、好きなモノなんだけど保管場所を作ってしまい込むようになる。物理的にもそうだし、心の中にも『引き出し』みたいなものをたくさん作って、そこに大事に入れておく。大切なモノはそのまま存在してるんだけど、目には付かなくなってすっきりした気分になる。

 いや、これは話が逆転してるのかもしれない。若いうちは大切なモノがどこかにいってしまわないか不安で不安で仕方ないもので、常に身に着けて目に届くところに置いておくものである。ちゃんと保管しておけば無くなったりはしないのだと理解できると言うことこそが成熟と言うものかもしれない。

 確かに『引き出し』に入れ込んでしまえば、存在を忘却してしまうのだ。大切なモノが多ければ多いほど覚えておくことが出来なくなるので、忘れてしまう。大切なのに忘れてしまうというのは矛盾のようだが、それでいいのだ。大切ならばいつだって思い出すことが出来るのだから。

 思い出すには切っ掛けが要る。で、音楽ならば、カバー曲というのが非常に良い切っ掛けとなる。俺だけなのかもしれないが、街角で昔の音楽を聴いても「懐かしいね」と思うだけである。だが、それがカバー曲であるとネットで検索したり原曲のCDを久方ぶりに引っ張り出して鑑賞したりする。そうして、それに熱中していた頃の自分や時代を思い返したりする。ニセモノの方が大切なモノに訴求するというのはおかしなものだが、事実、そうであるのだ。

 で、ボカロカバーの話となる。商業音楽におけるカバーというのは過去に売れた曲ばかりであるのだが、自分にとっての大切な音楽というのはそうであるとは限らない。CDが1,000枚しか売れなかった曲であっても大切になることはありえるのだ。ボカロカバーには需要を問わないものが多い。それぞれの『引き出し』からボカロに歌わせてるだけなのである。カバー専のボカ廃にとって”好きな曲をボカロに歌って欲しいから”以外の制作理由は無い。

 ニコニコ動画でそういったニッチ需要の動画を見つけて、それが俺の中で完全に埋もれていた曲で、でも大切な音楽であった場合の喜びは大きい。大切なモノを思い出す切っ掛けをくれたことに感謝したくなる。俺個人の考えなのだが、ネットというのはgive&give(言葉が変だが…)の世界であって、バイキングのスモーガスボードのように自分ができる範囲で何かを提供しあう場であるべきだ。

 だから、感謝の気持ちを込めて、俺もボカロカバーをニコニコ動画にupするのだ。技術力の無い俺の作るものであるから、拙い作品ではある。でも、誰かの大切なモノを思い出す切っ掛けとなって、その人の心の『引き出し』を開けてみるモチベーションとなれば嬉しいな。