言葉の魔術師

 心が疲れている時はブロントさんの言葉が沁みる。

 言葉と言葉には関係性というものがあり、繋がる言葉/繋がらない言葉は厳密に定まっている。その繋がらないはずの言葉を繋げてしまう作用のことを「異化」と呼ぶことにしよう。僕は文芸の言葉を持たないので正しい表現なのかはわからないが、ここではそういう風に定義することにする。

 従来、異化は限られたプロフェッショナルによる秘術であった。戦前であれば詩人、戦後であればコピーライターという、それを職業とする人間のみに許された行為だったのである。例を挙げれば、「汚れちまった+悲しみ」・「おいしい+生活」などが代表的なものであろうか。悲しみは汚れるものではないし、生活はおいしいという形容詞で表されるものではない。しかし、この繋がりによって僕たちは本来持ち得なかった豊かなイメージを得ることができる。これが「異化」である。

 以前であれば、普通人が正しくない日本語を使うことは許されないことであったのだ。インターネットの発達は秘術であった「異化」をすべての人に広げてしまった。ブロントさんの名言を見よ、封印は解けられたのだ。名言集の中でも『本能的に長寿タイプ』は特に美しい。本能と長寿は繋がる言葉ではない、いや、繋がっても意味は不明である。しかし、ブロントさんが訴えたかったことだけはひゅんひゅんと伝わってくるではないか。これを天才の所業といわずして、何を言うのであろうか。

 野生の天才を前にプロたちはなすすべを持たなかった。真の天才を知ってしまった僕らに電通の広告程度が力を持つはずも無い。糸井重里はただの釣り好きのおっさんとなった。駄菓子菓子、だがしかしである。ネットは予想を超える速度で拡大を続け、理解力も表現力も持たない愚民たちが大量に流入する結果を生んだ。彼らが望んだものは何か? ローマ帝国時代と同じだ。「パンとサーカス」である。

 その状況を疎んだ天才たちはネットの世捨て人となり、職人たちが跋扈する時代となった。大衆の望むものを供給するのが職人技である。ピエロが理解不能な動きをしては困るのだ。わかり易いユーモアのある動きをしてこそピエロである。そして、職人技は修行によって、誰にでもある程度のレベルに達することができるものだ。表現はやっと万人に開かれたのだと言えるのかもしれない。この状況を嘆く必要はないのかもしれない。

 だけれども、天才の時代への郷愁?憧れ?をこめて、僕たちはブロントさんの言葉を語りつぐべきなのだろう。凡人が到達できない場所へ軽々と足を踏み入れた人々が2000年-2005年くらいにはいたのだ。

 …というような与太文を書くくらいには、僕はブロント語が好きです。ブロントさんの言葉は麻薬のようなドライブ感があるよね。何度読んでも、あの言葉ならトべるぜ。ああいうセンスのある文に憧れるんですが、所詮、凡人の僕にはどうにもなりません。せいぜいがフォロワーとなるのが精一杯。うーん。