二次創作とボカロカバーと

 僕はオタクです。古いタイプのオタク。これが今日の話の前提条件ね。

 オタクとして二次創作―同人誌でもSSでも何でも良いんですけど―そういったものを作ろうとした時、想定する読者はオリジナルを知ってる人に限られます。「オリジナルを知らない人にも読んで知って欲しい」とは考えんです。SSはその際たるもので、キャラの説明は全然無いから知らない人が読んだら意味不明になりますけど、それは設計どおりなのでありまして。

 で、好きなアーティストの曲のボカロカバーを作ろうと言う時もやっぱり同じ考え方なのね。「この曲を好きでしかもボカ廃って僕以外に日本に存在してるんかなあ。でも、作ってて楽しいからいいか」てなこと思いながら、ミクさんたちに歌ってもらって、どうせだからと思ってニコ動にも置いています。でも、「あんた、選曲だけはいつも良いねえ」てなことをよく言われるんで、自分でニッチと感じてる曲でも予想外に需要があったりして、そこがネットの面白いさであったりしますね。

 だけれども。「音楽やってる人」がカバー曲をやる時は色々な人に聴いて欲しいと思って制作してるみたいなんだよね。最近になって、やっとそのことが分かってきました。「ボカロカバーを通じてオリジナルの良さを知って欲しい」というような考え方みたいです。僕のような古オタからするとそういう考え方は相当に異質であって、それは半面で僕の考え方は彼らには理解できないのでありましょう。文化の違いってやつですかね。

 オタクの原動力ってどこまでいっても自己満足だけであって、何かを作ってる時に受け取る側のことをほとんど考えないのが普通です。楽器を練習しながら音楽畑で生きてきた人がオーディエンスのことを常に意識してるのはやはりライブってものがあるからなんでしょうか? 僕らも承認欲求はそりゃありますし、音楽の人も基本は自己満足なんでしょうけど、どっかで決定的に意識の違いがあるような感じがするんですよね。

 ただ、「初音ミクは出会い系」という文章を書いていた人がいましたように、今のボカロ界隈はコラボ流行りですし、オタと外の人々が歩みよって意識のギャップも埋められつつあるのかもしれませんね。僕みたいに非コミュの人間からすると、作詞の人・作曲の人・絵師・MAD(動画)職人等々と寄り集まって、よくもまあ一つの作品が完成するもんだと感心していたりします。まあ、それなりに色んなところで衝突は起きてるんですかね。SNSの中でそういうのが発生すると外には出ないんで僕にはわからないだけで。

 という風味で今日の取り留めの無い文章はおしまい。結論とか考えてないで手の動くままにキーを叩いたから尻切れになっちゃったけど、ここまで読んだ人がいたらゴメンねってことで。